田中正造とタナカリューサク … ン???

仕事半分、飲み会半分で栃木の佐野へ。
両毛線がきちんと動いているか確かめず、少し時間に余裕を見て出発。

結局何のこともなく順調に佐野に着き、時間にけっこう余裕が出来てしまった。

さてと…、とりあえず徒歩数分の佐野市役所に行って案内嬢に聞いてみると、佐野厄除け大師が徒歩10分くらいのところにあるという。
初詣の頃よく耳にする名前なので、「何はともあれ一度行っておくか」と大師へトコトコ。

なんでもない日だったが、参詣者が数十人いました。
日本の厄払いをしようと流儀に沿ってお釈迦様の像に霊水(?)をかけて鐘を一打ちし、大震災で被害をこうむった方々に深く鎮魂のお祈りをしました。

たくさん吊るされた絵馬を見てみると、志望校合格などの願いとともに「東日本で災害にあわれた方へ」とか「早く安心して暮らせる日本に…」など、時節柄の内容が目立ちました。

佐野厄除け大師にある田中正造墓碑

大師の一角に田中正造の墓碑があり、傍らに石川啄木の歌碑がありました。
生涯を通して足尾鉱毒事件に取り組んだ正造の遺骨は、ここを含む5箇所のゆかりの地に分骨されているそうで、佐野市の博物館に正造関連の展示もあるとのこと。

博物館は大師から歩いて10分程度のところにあるので、ついでに足を伸ばしてみました。

田中正造については高校日本史程度の知識しか有りませんでしたが、博物館で生涯を紹介したビデオも見て「立派な人だったんだな!」と改めて思いました。

明治の中ごろ、古河銅山が垂れ流す鉱毒で流域が汚染され、渡良瀬川の洪水で一気に汚染地域が広がり大きな社会問題となっていました。
張本人の古河家や当時の栃木県令との幾度に渉る交渉、何百回にもわたる国会質問でも有効な策

佐野市博物館入り口の正造像

が打たれない状況の中で、正造は完全と国会議員を辞し、幸徳秋水が書いた「謹奏」という直訴状を持って明治天皇の馬車の前に躍り出たそうです。
その後も、鉱毒事件の象徴・谷中村で抵抗を続けた正造は、大正2年に73歳でなくなるまで生涯を通じて鉱毒問題の解決に奔走したそうです。

ここで、つい時節柄、福島原発に思いを馳せることになります。

問題解決能力のない当事者(東京電力)、あてにならない時の政府(菅内閣)、苦しい避難生活を続ける福島県民…。

してみると、今このときに平成の田中正造が現れるのではないか?、などと淡い期待をつい抱いてしまいます。

東電の記者会見において、具にも付かないような馴れ合い質問をするマスコミ記者がいるなかで、被災民サイドに立って大声できつい質問をする日本インターネット新聞の記者に「タナカリューサク」さんという人がいます。
昨日も東電社長の会見でも、いい意味で空気を読まずに大きな声で清水社長に詰め寄っていました。

田中正造とタナカリューサク、調べてませんがおそらく何の縁もない二人だと思いますが、佐野の町を歩きながら今の時代を考えてみるのでした。

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