原発の本質は幾重にも重なる「胡散臭さ」
原子炉、圧力容器、格納容器、復水器、タービン建屋、トレンチ…。
私たちはこの半月で、普段聞きなれないさまざまな言葉に大きな関心を寄せることになった。
言うまでもなく、大震災で明らかになった原発がはらむ大きな問題がきっかけである。
技術的なことはわからないが、原子力発電は
「どこかおかしい」「胡散臭い」
というのが素朴な実感である。
まず第一に、構造が複雑でそれぞれ巨大すぎる。
なぜ炉の周りに二重三重の容器が必要で、周辺にはプールやトレンチなるものが必要なのか。
「復水器」なんて言葉は、パソコンもまともに変換してくれない。
複雑怪奇なあちらこちらの場所で、連日のように新たな問題が発生してくる。
複雑なものは震災がなくてもいつかは故障し壊れるのが必然。
壊れてしまった巨大なものは、暴走し手におえなくなることも必然。
エネルギー国策の元、こうした「胡散臭さ」にまずフタがかけられている。
第二に、原発を運転するのに大きな電力を必要とすること。
電力を失った巨大発電装置が、人の手に負えなくなることの「胡散臭さ」。
そしてもっとも「胡散臭い」のは、そうした巨大装置の中で燃やされ有用な動力だけを取り出せるとされているウラン燃料そのものの「胡散臭さ」。
プルトニウムなんてものは、人が手にしてはいけない元素としか思えない。
このように、幾重にも重なる「胡散臭いもの」に国策というフタをかけ推進してきたのが原発政策で、その推進主体もこれまた実に「胡散臭い」電力会社であるのだ。