「激流」第六話。事実なんかよりドラマはよっぽど「奇」なのだ!
最近の火曜夜のお楽しみ、NHKドラマ「激流」第六話を見た。
「事実は小説より奇なり」などというが、残念ながら日常の身の回りではあまりそんなことは起こらない。
平凡な人の周りで起こる出来事には、必ず何らかの原因があり、それ相応の結果があるのだと思う。
小説より奇な事実が起こる時、おそらくそこには「犯罪」や「背信」などの社会的に本来あってはならない人間行為の影があるのだと思う。
しかし、チマチマとした60年弱の人生の中では小説より奇な出来事に巻き込まれたことはない(と思う)。
これから何があるのかはわからないけど。
ドラマや小説では、「出来事の整合性」よりも作品を貫くテーマが大切のはず。
だから、やっぱり事実なんかよりよっぽどドラマは「奇」な展開をたどる。
ドラマ「激流」の中の出来事を、「なぜ?」とか「どのようにして?」などと考えても仕方ないことだ。
第六話「真実の光明」では、第四話あたりの中だるみ・尻すぼみ状態から少しスリル感や期待感が復活してきたように思う。
今まで本筋ではなかったところで不思議な存在感を醸していた冬葉の母親が、ストーリーの鍵を握る人物としてクローズアップされてきた。
蓼科で療養生活をしている何とかという元教師も、けっこういい味で絡んできた。
第七話ではこの母親がドラマ全体の落とし前をつけるべく、本筋の中に登場してくるのだろう。
それにしてもこの第七話のタイトルが、「悪女の告白」! このセンスの悪さは、何とかならないものか(笑)。
元をたどれば「激流」というタイトルもなんとも…。
原作を読んだことはないが、要するにこのドラマでは、中学校の同級生の間に成立している「集合表象としてのフレンドシップ」と20年間の間に発生したそれぞれの出来事が形作る「恨みの集合表象」、そのせめぎ合いが描かれている。
無垢な善意と現実から必然的に生まれる恨みの争闘、そんなありふれたことがテーマなんだと思う。