宮台真司、福島原発、震災復興…

弁舌における説得力が魅力でも、彼の著書を読んでみるとほとんど理解できないという人はいるもので、小生にとっては宮台真司がその一人でした。
ラジオ・TVのニュース解説や討論番組での彼の言葉を聴いていると、鋭く本質を穿った解説や水掛け論に陥ることなく論敵を負かしていく頭のよさに、少しばかりの嫉妬を感じながら感心してきたものです。
しかしながら、本来の専門分野(社会学)である彼の著書に挑戦してみても言いたいことがさっぱりわからない。
むかし浅田彰がブームになったときに、膝をたたいて「なるほど!」と夢中になったようなMyブームはついぞやってきませんでした。

そんなわけで「どうせ途中でアバンダンするだろう」と思いながら買い込んだ「日本の難点」(幻冬舎新書)を我慢しながら呼んでいると、原発についての話が出てきた。

200ページあたりを引用すると…

「今日の高度技術社会が孕むリスクは、事象ごとの発生確率を…ベイズ統計のような手法で対処可能な常識的なものとは違い、(事前の)予測不能・(目下の)計測不能・(事後の)収拾不能という性質に、特徴があります。

原子力発電所について、事故の発生確率はこれこれで、想定される周辺汚染はこれこれだから、こうした対策で十分だ、といった説明は、基本的にお為ごかしだということです。」

とある。

まさにこれは、大きな犠牲を払いながら今の日本が経験していることですね。

そんなことを考えながらTVを見てたらNHK解説委員の山崎さんが、東電や政府の言い訳の中に必ず「今回の地震と津波は想定外」という枕詞があるが、「事態がここまで大きくなった今では『想定外』という言葉に何の意味もないし避難住民は聞く耳を持たないでしょう。言うべきではない」と、NHKらしからぬラディカルなことを言ってました。

コントロール不能の原発やサブプライムローンのように崩壊まで暴走を続ける金融資本主義の根っこは同じで、今の世界は予測も計測も収拾も不可能なアーキテクチャーの上に乗っていて、人間はもうそこから逃げることは出来ないと宮台さんは言います。

それじゃ一体どうしたらいいのか、お先真っ暗じゃないかと思うのですが、宮台さんがここで持ち出すのが「共同体的自己決定」「市民政治」という概念です。

「統治権力における政治的決定に先立ち、顔の見える共同体の範囲で自分たちがどうするかを決めるのです。」(201ページ)

「共同体的自己決定」とはどういう決定のメカニズムなのか?
宮台さんは「他の共同体に迷惑をかけない(権利を侵害しない)範囲での自己決定の自由」と「(権利の侵害の範囲についての)共同体間での鬩ぎ合い」が、共同体的自己決定の2つの側面だといい、そうした決定を成員の成熟に期待しているようです。

わかったようなわからないような、そんなこと実際可能なの?、といった感じですが、今回の大震災からの復興が具体化する中で、大きな統治権力(政府・国家)は「復興構想会議」なるものを組織するとか言ってますがまったくその動きが見えない中で、被災地自治体とそれを支援する自治体、民間団体との関係で、この「共同体的自己決定」が実際は行われ行われているのではないか、と痛感もするのでした。

震災対応で見られた「強さ」と「やさしさ」を備え、政治的にも「成熟」した市民が、この「共同体的自己決定」の主役になる、そんなことは絵に描いた餅に過ぎない幻想なのでしょうか?

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