小林秀雄が志ん生なら、茂木健一郎は林家三平!?
「花子とアン」での名演技が巷の関心を集めている茂木センセですが、あれは小津安二郎作品の笠智衆の境地ではないか!、などというバカな評価もあるらしい。
「群馬初」・伊勢崎の講演会では、茂木さん本人もそんなことに触れていた。
「何をバカな!」。
モノの言い方や人の褒め方はいろいろあるものですが、「そんなことは断じてない!」。
これは小生のただの直感です。
ともあれ、本業ではない単なる余技での戯れについて、「すばらしい」とか「棒読みだ」などとあれこれ言われても、「屁の河童!」というのが茂木さんの本意なのだろう。
先日、伊勢崎にて茂木さんの講演を生で初めて聞いて、昭和30年代生まれの小生は「昭和の爆笑王」といわれた林家三平のことをつい思い出してしまいました。
当時の林家三平さんは、「あんなの落語じゃない!」などと言われながらも、とにかく圧倒的な笑いを獲得していた。その勢いには、由緒正しい古典落語派なるものがなんと言おうと、「負け犬の遠吠え」にしか聞こえないハチャメチャパワーを感じさせたものだ。
茂木さんの話は、普通の知識人の講演のように持ち時間用に準備した話を淡々と読み上げるのではなく、またパワーポイントの資料に沿ってTED風にプレゼンするのでもなく、まさしく三平風に聴衆と一体化しながら飄々と場を作ることを狙っているような気がした。
「多動症・茂木健一郎による、話芸中心のステージ」、それが茂木健一郎講演の本質なのだろう、と思う。
もしかしたら、茂木さんは小林秀雄のことをかなり意識しているのではないかとも思う。
『文学の雑感』とか小林秀雄の講演は、いまでもCDで聞くことができるが、確かにその語り口には何とも言えない古典落語のような味わいを感じる。
それは志ん生の名調子にとても似ている、という評価もある。
(小林秀雄も志ん生も、同時代の雰囲気の中で聞いたことのないので、事の真偽を云々できないのだが)
「何もかも小林秀雄に教わった」という誇大な妄想表現はあるが、何かと小林秀雄を意識している茂木さんは、志ん生の代わりに三平を意識して演じているのだろう。
もしかしたら、生来あのもじゃもじゃ頭であるがゆえに、「俺は三平で行く!」とどこかの時点で戦略的な選択をしたのかもしれない。
だとすると、「やっぱ茂木健一郎は只者ではない!」などと思ってしまうのでもありました。